朝日に思ったこと
私は週に2日、朝刊の配達をしています。集金のある週だけ1日に減らしてもらってます。
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私の配達のスタート時間は遅くだいたい4:30頃なんですが、エレベーターの無い集合住宅の5階への配達の時には、一度立ち止まってあがった息を鎮めながら、いつも朝日の方向をふとみてしまいます。
この5階への配達が無ければ体への負担は半分以下になるのですが、真冬は逆にこれを登らないと体が温まらないので無ければそれはそれで困ります。
それに早朝の空をそこから毎回みることで、清少納言の「春はあけぼの」の四季を「ホント、その通りだねー」と、ここ何年ずっと深く味わっています(*´ω`*)
ところで、ウチは年末年始の旅行先で初日の出の写真を撮ることがよくあるのですが、昨年の2017年の元旦の朝にその写真を撮っている時に・・・↓
「朝日か夕日か、どっちかわからんなあ」
と、ふと思ったのでした。
それでこの前の朝刊配達の時に、5階と4階のあいだの踊り場でしばしの間、朝日をみながらそのことを考えてて、
朝日か夕日かは、人間が決めてるだけやねんもんなぁ、と思いました。
だって、太陽にしてみたら「ハイ今から朝ね~」とか「ハイ今から沈むね~」とか、そんなコト関係なくずっとただひたすらそこで燃え続けているのですから。
↑さて、これは昇る前か沈んだ後かどちらの写真でしょう?
ではなぜ、人は朝日と夕日のそれぞれを決める必要があったのか。
それは人間にとって「時間の概念」を明確にする必要があるからでしょう。
ではなぜ、その「時間の概念を明確にする」必要があるのか。
それはきっと、「寿命」があるからだと思いました。
「寿命」が無ければ、時間の概念を明確にする必要なんて無くなります。「そしたらカップラーメンの3分はどないして計ったらエエねん」というようなツッコミはおいといて。
「寿命」があるから「時間の概念」が必要となり、人間は何とかして自分に与えられた時間を少しでも良いものだったと思えるように数々の文化が生まれ、春はあけぼの・・・というような日々の暮らしに彩を与える文学もあるんだろうなぁ、と。
人間以外の動植物も同じく、きっとそれぞれ独自の時間軸を持っており、もちろん地球上だけでなく宇宙にいまある存在のすべてに「寿命」がある。
そして「寿命」によって「永遠」は保たれるのだと(*'ω'*)
人間はみな幸福でありたいと願っている。けれども全てに両極があって不幸な出来事や死から逃れることは絶対にできない。
けれども、たとえ目には見えないものでも全部、目に見えて存在する何かに必ず繋がっている。その逆もまた同じ。
限られた時間に何を考えどう過ごし、何にどんな影響を与えるのかで自分という人間の中身に与えられるものも決まってくると思う。
そんな自分なりの答えを得て「ヨシッ」と満足し、新聞の配達に戻る私でした。